法友からのメール
2022.02.11
首都圏では大半の寺が秋、10月~11月に報恩講(親鸞聖人ご命日法要)を勤めています。本山は毎秋11月20日~28日ですが、北海道では、7月・8月に報恩講が勤まる地域もあります。農閑期の兼ね合いのようです。(因みに今年の拙寺の報恩講は、10月15日(土)・16日(日)です。16日は池田勇諦先生、Zoom配信併用です)
愛知県岡崎には、正月4日から報恩講を勤めている寺があります。そこにお参りした法友からのメールに深く感銘を受けました。県内在住の五十代のキャリアウーマンであり、またご家族もおられます。社会問題に関心が深く、革新政党の活動にも参加される感性が鋭敏な方です。(ご本人の了解を得て公開しています)
○○先生のお話はすごくよかったですが、それは私の考えに近いからそう思えるだけかも知れません。ですから他の方々は、あの法話をどのように聞かれたのかが気になっています。自分の考えと近い話は心地よく、そうでないと入ってこない。
そうだとしたら、どうしたら自分と違う考えの人とお互いを尊重しながら対話できるのでしょうか。私の今年の課題です。(愛知県・女性・50代)
年明けの報恩講で、ある教学者の先生のご法話に感銘を受けられたのです。となれば「今日は寒い中をお参りして良かった・・」とホクホク顔で帰るのが通例でしょう。それが私が考える仏法聴聞です。
ところが、この時に発起したことは、違ったのです。「私の考えに近いから、心地よいだけではないか」との問いかえしがおこったのです。聴聞それ自体が丸ごと翻(ひるがえ)されたのでした。法話鑑賞を超えて、まさに聞法そのものです。
「自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり」(『歎異抄』第3条・聖典627頁)
自力のこころを翻す力を他力と名づけているのであって、他力に遇わねば自力のこころは見えません。また自力のこころを壊滅する話でもありません。
松本梶丸先生は「法話が良かったと言うなら、どこがどう良かったのか。わからないと言うのなら、どこがどう難しかったのか。そこを確かめない限り、自分の上を通り過ぎていくだけです」と仰っていたことを憶います。南無阿弥陀仏