清澤記念館だより(臘扇忌報告)
2020.05.12
2018年6月10日(日)午後2時。島﨑暁民(ぎょうみん)先生(金沢教区称佛寺住職・昭和5年生まれ)をお迎えして「臘扇忌」が勤まった。先生には終生のご出講を懇請しているが、前日の夕方に出迎えた羽田空港では、ご夫妻ともに車椅子であった。
とはいえ車に乗り込むなり、第一声は「ソクラテスのことだけどねぇ・・」。「臘扇忌」、先生ご自身の言によれば「臘扇堂忌」は、羽田空港から始まった。
今回の講題は、「自然法爾(じねんほうに)と清澤満之先生 ― 自力無功(じりきむこう)を信ずる ―」。レジュメは、手書きの原稿用紙28頁。清澤先生、親鸞聖人、佐藤一斎「言志四録」、「阿含経」等、清澤先生が出遇い、学び、導かれた世界が凝縮されていた。レジュメを駆使しながら二席、計2時間ほどのご法話の結びは「阿含経」が伝える、入滅近い釈尊の「最後説法」であった。
『そこで世尊は比丘(びく)たちに言った。では、比丘たちよ、わたしはなんじらに言おう。「すべてのものは壊法(えほう)である。放逸(おこた)ることなく精進するがよい」と。これが世尊の最後の言葉であった』。(「阿含経」「最後説法」より 増谷文雄訳)
『「壊法」とは、壊れるということ。一切が。宇宙万有、私自身の身体も心も、一切が壊れる。これだけは間違いないこと。たよれるものなどない。裸一貫で死んでいくしかない。みんな壊れていくんや。「これでたすかった」と思うたものも、ナンマンダブツも壊れていくんやね。清澤先生の『臘扇記』にある「平生心事」の「現金懸値(かけね)なき所を露呈して避憚(ひたん)せざるの意なり」の「避憚せざる」が「放逸ることなく精進する」という意味。自分には、まことの一片もない、身体も心もたよるものがないという相をありのままに見なさい。逃げないで。そこ、動くな。じっとして自分のありのままを見なさい。「一切壊法 常精進」とも訳しますが、「精進」というのは逃げないでありのままを見ることだと私は解釈しております』
(以上、録音を基に抄録)
『清澤満之記念館だより』(愛知県碧南市)2018年9月号寄稿