西田幾多郎のつぶやき
2022.07.15
西元宗助先生の著書にあった一文と記憶しており、ここ数日探して続けているが出てこない・・😢。焦って探す眼が目の前の本を素通りしていることもママあり、忘れた頃に出現するかもだが、以下聞書きとして記す。
浄土真宗と深い結びつきがあった、石川県出身の哲学者西田幾多郎(京都大学名誉教授)がある日の夕暮れに散歩しつつ、墓地の傍らを通りかかった。立ち並ぶ数多の石塔を眺めつつ、湧き上がった感得を後に漏らされた。
「この中には世間を騒がせた人もいただろうし、恨みを抱えたままに生涯を終えた人もいただろう。でも誰もがいのち終えたら、仏として拝まれる。最も素朴な民族風習であろうが、この世界観が最も深い、としみじみと思った」との述懐であった。この人にしてこの語あり、である。
死者をどう見るか。畏れるか、拝むか。むしろ拝む以前に拝まれている、と南無阿弥陀仏が証している。死後の霊界の詮索などでなく、この世を生きる私の眼の問題である。些細な出来事も含め、一切が我一人へのよび声だった、との発見の一念である。この感得も、感得それ自体が数多の墓所から回向された―と博士は受けとめておられたに違いない。「無数の阿弥陀」まします。南無阿弥陀仏。