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コラム・法語
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親鸞聖人荼毘所(だびしょ)に詣でて

2024.12.04

弘長2(1262)年11月28日「午時(うまのとき=午前11時~午後1時)」「ついに念仏の息たえましましおわりぬ」(『御伝鈔』聖典①736頁)、親鸞聖人は齢九十才にて、京都の地で往生の素懐を遂げられた。そして「洛陽東山の西の麓(ふもと)、鳥部野の南の辺(ほとり)、延仁寺(えんにんじ)に葬したてまつる」と伝えられている。親鸞聖人のご遺体を荼毘(だび=火葬)に付した「親鸞聖人荼毘所」に詣でた。

親鸞聖人は生涯を通して、寺の住職でなく、本願寺教団の創設者でもない。当時においては決して著名ではなかった非僧非俗の念仏者であり、師法然上人が開いた浄土真宗の一門徒であった。この点は畢生の主著『教行信証』の後序に「予はその一なり」と自らを一門徒と表明し、「真宗興隆の大祖源空法師(法然上人)」と記されているとおりである。『教行信証』は、師教こそ一切衆生に公開された真の仏教との宣言であり、同時に師に捧げた「知恩報徳」の書である。

荼毘所は真宗大谷派延仁寺様の墓所の最奥にある。
10分ほどかけて長い石段を登り切ると、当時を忍ばせる風情のご旧跡が目に飛び込んでくる。石段の片側は墓地になっており、またその参道に面して石碑や地蔵、墓所などが並んでいるが、それらに刻まれた法語が浄土の風光を伝えて下さっていて何とも有難い。人知れず、ひっそりと、諸仏称名の大合唱である。懈怠する私から、念仏申す時を引き出してくださる。

数々の法語は聖教の一節であったり、あるいは曽我先生か藤代先生の仰せのような言葉もあり、あるいは当時のご住職の言葉かもしれないが、まさしく「参道」を「参道」として荘厳している。衆生教化の「参道」は、むしろ裏街道にこそ、とつくづく思い知らされた旧跡参拝であった。南無阿弥陀仏


参詣者用駐車場から参道は始まる
『歎異抄』第5章の一節 あえて「そのゆえは」で結んでいる
もはや文字でなく声である
南無阿弥陀仏 限りある身を 限りなく生きる力」  無量寿!
「親鸞聖人讃仰講演会」における池田勇諦先生の渾身のご説法が聞こえてくる
名もなきものの/名によって/歴史は/荘厳される/名もなきものに帰れ
曽我先生、あるいは藤代先生を彷彿とさせる金言

「法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらわして」(『唯信鈔文意』①554頁)
見真大師御荼毘所」 中央奥・鬱蒼とした樹々の間に親鸞聖人まします
南無阿弥陀仏


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