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コラム・法語
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令和3年2月22日 聖徳太子1400回御忌

2021.03.04

08年11月29日磯長御廟前にて額づく谷田暁峯師 ある門徒は谷田師のこの姿を「五体投地」と讃嘆された 五体投地せしめるはたらきを仰ぐ―

本年は聖徳太子1400回御忌ご正当の年である。

親鸞聖人を本願の行者として生み出した「父」であり「母」であった聖徳太子は、「観世音菩薩」であり「和国の教主」であった。太子無くして法然との出遇いは無かった。だから、親鸞聖人をして親鸞聖人たらしめたのは聖徳太子であった。 六角堂の夢告に遇わなければ、聖人は比叡山に戻られた―と思わせるだけの重さが『恵信尼消息』にはあると私は思う。
だから「聖徳太子に導かれて、宗祖としての法然上人に遇った仏弟子‐親鸞聖人」を私は仰ぐ。和讃に「奉讃不退」 「慶喜奉讃」 「奉讃」 とある通り、「奉讃」せずにおれない感動が聖人の原動力であろう。

磯長叡福寺「見真堂」 今生のお別れに・・と88歳の聖人が参詣され、自ら刻まれた親鸞聖人像が奉安されている いのち終えても「奉讃不退」をかたく期されたのであろう 


親鸞聖人にとっての聖徳太子は仏であった。この一点は揺るがない。歴史的実在性への疑念や戦前戦中の政治体制における太子の位置づけを問題視することと「浄土真宗の聖徳太子」は無関係である。
親鸞聖人にとっては「史上の太子ではなく永遠の太子であった」と金治勇先生は仰る。また「観音無き教学をいつまでやっとるのかなぁ」とは、島﨑暁民先生渾身の一言である。

冒頭の画像は、太子讃仰の念に生きられた谷田暁峯師と共に磯長(しなが)の御廟(太子・母・妃「三骨一廟」=墓所 「家族ぐるみの往生」金治勇)を参詣した折の一枚である。御廟の前に立つなり、額づいて合掌礼拝し念仏申された谷田師。右隣でデジカメでの撮影を始める私。
片や南無阿弥陀仏の世界を呼吸する真宗門徒であり、片や写真撮影に暇がない観光客である。私にとってはこの谷田師が親鸞聖人であり、生きてはたらく太子を疑う余地が無くなった時である。と同時に私の化けの皮をはがして下さる時でもある。

四天王寺「見真堂」 太子ゆかりの地には親鸞聖人を奉安する堂や石碑が散見される 真宗信心の歴史を証するのみならず、四天王寺に関する和讃を多くご製作された親鸞聖人の一面は未だ解明されていない 高田派に多く伝承されている太子信仰こそ親鸞聖人ご自身の信心の核であろう 


吉水へ向かう態度決定を与えた『太子の勅命』=夢告・日本仏教史上随一の200首もの和讃・『尊号真像銘文』(83歳時の略本には聖徳太子の伝承は記載なし。86歳時の広本に追記。ということは晩年にいよいよ太子奉讃の念が深まり、七高僧と並んで浄土の教えの系譜に位置付けられた―と柏原祐泉氏は指摘されている)・伝記『上宮太子御記』・上宮寺様/勝鬘寺様/聖徳寺様/太子山といった山号や寺号・何よりも本山をはじめ全国の真宗寺院に七高僧と並んで聖徳太子が奉安されていることからも浄土真宗の源流に太子まします。新しい親鸞聖人に出遇わせてくださるのは、聖徳太子かも知れないとの予感である。南無阿弥陀仏

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