曽我量深師 ― 暁烏敏師13回忌法要
2022.11.23
曽我量深師は明治8(1875)年生まれ、 暁烏敏師は明治10年生まれ、金子大榮師は明治14年生まれ、同世代であった。三師の交際は深く、昭和29年8月27日に暁烏敏師が西帰された後も、年忌法事の法話講師は、曽我師、金子師、藤原鉄乗師等であった。
曽我師に随行された藤代師が北海道某寺の坊守に宛てた手紙から、抜粋する。
「長い随行生活で先師(※曽我量深師)の涙は二度しか見ておりません。一度は暁烏先生の弔問の時でした。二人は信心のことでは忌憚ない批判はしておられましたが友情の絆は固いものがありました。暁烏先生の同行が臨終「これから誰の話を聞けばよいですか」と尋ねたら(※臨終間近の暁烏師は)「曽我君」だと答えたとその同行から聞きました」。(原文ママ)
絶対無限を媒介として生まれる「真の朋友」(清澤満之)である。根源的連帯であり、相互依存を超えた僧伽である。 「二人は信心のことでは忌憚ない批判をしておられた」とは、何と素晴らしいことだろう。真っ向から批判し得た信頼関係は、共に清澤満之を師と仰ぐ絶対の信頼であろう。
晩年の親鸞聖人が同じ法然門下の聖覚法印や隆寛律師を「この世にとりては、よきひとびとにてもおわします。・・法然聖人の御おしえを、よくよく御こころえたるひとびとにておわしましそうらいき」(聖典564頁)とお手紙に綴っていることとぴったり重なる。時代を選ばぬからこそ、絶対無限なのである。
真宗大谷派難波別院発行『南御堂』紙1984年10月号、横山定男氏の連載記事「触光(そっこう)」に上掲の写真が掲載されており、当該記事は氏の著書『詞集ありのままがありがたい』(難波別院)112頁に転載されている。その一部を抜粋する。
「暁烏先生がお亡くなりになって、十三回忌のご法要をつとめられた折のことでした。この臘扇堂へ、曽我量深先生がお詣りなさいまして、その時の曽我先生のお言葉に、 暁烏君はえらいね 一生涯清澤先生に帰依されて 永劫 清澤先生のおそばで 先生を礼拝され ご自分の師を慕い 師の信心を わが信心として 頂かれたんですね その心には 驚くばかりです とおっしゃられました」。
感応道交の世界は、底知れず深い。南無阿弥陀仏
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