〈開催報告〉元日修正会
2024.01.01
元日午前11時。高木総代が司会を務め、皆さんで正信偈のお勤め、拝読文は『蓮如上人御一代記聞書』第1条(『聖典』854頁)でした。25分ほどの法話後に、小川総代の発声で本堂にて献盃し、客間にてお斎をいただきました。
蓮如上人〈79歳〉と道徳〈74歳〉の元日の対話から、真宗再興とはどういうことかを教えられます。
「道徳、いくつになるぞ」からは、新年を迎えるたびに一歳加える数え年の時代背景がうかがえますが、単に年齢を確かめているのではないのでしょう。
例えば久々に会うお子さんに「何年生になったの?」と声を掛けたり、あるいは「古希ですか。お若く見えますね」といった世間の挨拶とは、まったく違います。道徳は自分の年齢を応答しておらず、また蓮如上人は「いくつになるぞ」に続けてご説法を始め、しかもその対話が「聞書」として伝わっているのですから、単なるおしゃべりではないことは申すまでもありません。
「いくつになるぞ」は「いくつになっても、念仏一つだぞ」との響きでしょうか。「われらの業はどこまでも深く無尽、また待ったなしの身を生きているのだ。だから「弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて(即時に・ただちに)御たすけにあずかるなり」。「一念」が「いま」「いま」「いま」と生涯を貫通くださるのだ」との要を、年始早々語らずにおれなかったのでしょう。
前住職が2002(平成14)年元日に69歳で急逝、元日朝8時過ぎに病院から本堂に遺体を奉安した際、堂内のホワイトボードに書かれてあった法語が下の画像です。いわば前住職の遺教です。
当時の私は「仏法とは絵空事と思っていたが、どうやら現実そのものを指すようだぞ・・」と初めて感じたことでした。
浄土真宗であっても無くても、たとえ宗教嫌いの方の上にも常にはたらき、時代を超えても決して変わることがない道理が「明日と申す事、あるまじく候」でありました。
「仏法の事は、いそげ、いそげ」。今年も共に聞思を。南無阿弥陀仏