〈開催報告〉臘扇忌が勤まりました
2024.06.24
6月23日(日)14時~17時、臘扇忌が勤まりました。
今年もまた島﨑暁民先生(石川県称佛寺住職・昭和5年生まれ・94歳)に、ご自坊からZoomにてご出講いただきました。配信は、拙寺衆徒勝見法兄(石川県白山市在住・加賀福祉会理事長)が毎年引き受けてくださっています。
講題は「自己とは何ぞや 是れ人世の根本的問題なり―自力の無効を信ずる」でした。
「私の信念には、私が一切のことについて私の自力の無功なることを信ずるという点があります」(『我が信念』)を軸に、自力無功=機の深信に収まることを『歎異抄』後序における「金言」が機の深信ひとつ、法の深信は説かず、であることを示しながら、丁寧に教えてくださいました。
全16頁に及ぶ、先生手書きのレジュメの2頁には
「吾人は有限なり 相対なり 絶対無限は之を所縁とする能はざるなり 吾の対縁たるものは只相対有限あるのみ 故に相対有限に対する破拆が正に吾人の能事たるなり」(『転迷開悟録』「八 無限完全なるものは果たして実在せるや」岩波版『全集』2巻162頁)が掲載されていました。
島﨑先生は、「破拆」の一語を要として読みぬいておられました。
相対有限が絶対無限を知ることは不可能。だから、無限が有限を叩き破る、言い換えれば有限においては「真理が叩き破ってくるのだ」(西谷啓治氏講話聞書)と喝破されました。親鸞聖人におきても「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」(聖典149頁)、「破する」が「光明」と「闇」の唯一無二の接点でした。
分限の自覚こそ、絶対無限の回向でしょう。機法二種深信と同じく、井の中の蛙に井の中の蛙との目覚めを回向したのは大海でした。井戸は、曠劫以来、大海に包摂されていたのでした。もともとそうだった!そこから分限を尽くす出発がいつでも、どこでも開かれます。
「破拆」 の一語に立って、島﨑先生は「「よき人」とは、現実(無常)をありのままに見て、自力の有効を叩き破ってあくことなき人であった」(レジュメ5頁)とおさえられました。
わずか数分の、 暁烏敏先生との一会が島﨑先生の一期を貫通して、先生を突き動かしています。18歳の島﨑青年の前に坐る「盲目の暁烏先生はちょっと笑っているようでしたが、わたくしの内心はたいへんでした。この世にこんなおそろしいものがあったとは。まるでケツの底まで見すかされているような、わたくしはふるえがとまりませんでした」(レジュメ11頁)。「破拆」の一つのサンプルでしょう。
「女犯偈」(聖典725頁)についても、先生独自の深い味わいを語られました。
「この文の主体は救世観世音菩薩であるということ。「観世音」とは「世の音を観る」、即ち「世の苦しみを知る」ということである。奥さまは世の苦しみをうつす鏡である。そして一生そいとげるのであるから夫の正体を見ぬいてしまうのである。一片のまことなきこと、もはやかくすすべもなく、ありのままにまかすほかないのである。夫も妻の正体を見ぬいてしまうのである。女性差別どころか鏡の如きお師匠さまである」(レジュメ15頁)。
消化されきっており、私は唸るほかにありませんでした。
さらに「「臨終引導」とは、自力のあがきが通用しなくなったと気がつく時のことである。「よき人」とは、自力の思い上がりをたたき破ってやまない人のことをいう。「女犯の偈」は、「自力無功」を予告しているのである。これが愚生のざっくばらんの所感であります」(レジュメ15頁)と先生の表白は続きます。
「来年は釈尊に立ちかえって・・」と笑顔でおっしゃり、「自分を粗末にしないで大切に」と話を結ばれました。
16時過ぎに先生が話を終えてからの私の所感は、まったく蛇足でした。ご参詣の皆さま、どうぞお許しください。
それにつけても、先生の一言一言は極めて重く、ズシンと目方を感じます。その重さこそ、とつくづく感じた臘扇忌でした。誠にありがとうございました。
もちろん来年も島﨑暁民先生に必ずご出講いただきます。南無阿弥陀仏