〈開催報告〉8月22日(日)香草忌
2021.08.23
忘れた頃にやってくる・・との故事通りに、新型コロナ「第5波」は「ワクチン接種による早期収束」の夢を壊しつつ、猛威を振るっています。シビアな状況でしたが、本堂参詣は人数を限定しオンラインZoom配信併用スタイルで勤まりました。説法獅子吼下さった池田勇諦先生、 ライブ配信を全面的にお引き受けくださった 西恩寺池田徹ご住職、存徳寺徳永智也副住職(岐阜)、Zoom参詣最多63名、拙寺参詣13名など、法会を荘厳下さった皆さまに御礼申し上げます。
「私にとって暁烏敏とは」との讃題を掲げた池田勇諦先生は、ご法話の冒頭で次のようにおっしゃいました。
「申すまでもないことでありますが、私が暁烏敏大徳について評論することでは、もとよりないのであります。暁烏敏という巨人の足下にも及ばない私にそんなことができるはずがありません。力もありません。そういう私ですけれども、一つだけしなければならんことがある。そう思い定めておりますので、この度の出講の要請をお引き受けしたことであります。その「一つ」というのは「私にとって暁烏敏とは」、であります」。
先生は幼少時からの自らの歩みを語られ、それらは「私事」でなく「仏事」とおさえて話を進められました。単なる個人体験でなく、一切が眼を開かさんが為の如来のご苦労-との深い謝念として聞こえました。そしてご自身が抱えた求道上の陥穽を通して、親鸞聖人が仰る「信心」とは、いわば「と思う」どまりの単なる思い込みなどではない、と「ハッキリ」させられたのが暁烏先生の書籍との出遇いであったと。それは新たな知識の付け足しなどでなく、むしろ「何がハッキリしていないのか」がハッキリすることであり、と同時に如来観の一大転換だったのでしょう。
「ハッキリ」したことは、如来は「はたらき(作用)」であり、「自然の道理としての因縁果の法則」=「成り立たせているはたらき〈法性法身〉」を「自然の道理の発動としての本願力」=「報(し)らせるはたらき〈方便法身〉」であり、その「報らせかた」は「無我なる存在」「自力無功」「落在」であると。
「信心」とは一時的な感謝の心情などでなく、真の主体となってくださる「歩む信」であり、「一念の反復」にきわまるとお聞きしました。池田先生のつねの仰せである「仏法は精神論でなく存在論である」の一語が簡潔にして、いかに的確かを新たに教えていただきました。
後席では暁烏師の「釈尊成道の一念は、己れ是悪魔也との自覚である」(『更生の前後』下欄参照)を引用され、釈尊の正覚は「おお無明よ」=機に目覚め、そして縁起の道理=法に目覚めた一念と聞きました。
拙寺総代は翌朝寺に来られ、「釈尊の二種深信ですね。このことひとつ残りました。いや、すごかった!」と。
池田先生としては珍しく予定時間を超過した一大説法。先生における「如来我となりて」の表白でありました。しかも「私にとっての」はそのまま「一切衆生にとっての」に転じていました。先生、ありがとうございました。
閉会後に堂内の暁烏師・藤原鉄乗師の書軸をカメラを通して皆さんにご披露し、本年の香草忌を終えました。南無阿弥陀仏
法話レジュメとして配布した暁烏師の一文を以下に転載します。
私は長い間釈尊正覚の一念が知りたかったが、しっかりわからなんだ。最初には佛子の自覚じゃと思うた。これもまちがいではなかろうが、話が遠い。本年に至りて特に明瞭に、釈尊成道の一念は、無明よとの叫びであるという事がわかった。無明よとは、闇黒よという事である。この念の開けた時、対向して凝視している悪魔は悪魔ではなくて、それが自己本然の姿であるのである。故に悪魔を降伏するとは、自分が悪魔になる事である。この意味で釈尊成道の一念は、己れこれ悪魔也との自覚である。この大自覚に入られてこそ、真に一如の天地が開けるのである。『華厳経』は、己れこれ悪魔也との大自覚の光耀を書いたのであります。ここに自覚せられたが故に、自覚者即ち佛陀でましますのである。故に佛陀は悪魔であるのであります、悪魔が佛陀なのであります。ここは普通人にはなかなか味わいかねるだろうと思います。又古来未だ曾て私のように言うた者がなかったかもしれません。悪魔の自覚、無明の叫び、この正覚がわからねば、生死即涅槃だとか、煩悩即菩提だとかという味はわからぬ筈であります。ここまで来てこそ、真に天上天下、唯我独尊であります。 (大正8年5月3日)
『暁烏敏全集』第12巻192頁~ 『更生(こうせい)の前後』
※10月17日(日)拙寺報恩講に池田勇諦先生がご出講くださいます。
(16日(土)午後:市野光生師・市川道誠寺 夜席:当山住職)
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