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〈開催報告〉8/28(日)香草忌が勤まりました!

2022.08.29

暁烏敏(あけがらす はや・1877-1954)昭和29年8月27日78才西帰 香草院釋彰敏 
堂内17名・Zoom最多31名が参詣されました


8月28日14時〜、今年も香草忌が勤まりました。3年連続で夏場に感染拡大するのはひとつのパターンなのでしょうか。ピークアウトしたようですが、本堂は17名で締め切り、Zoomは最多31名の方がお参りされました。

讃題 「皆当往生 皆まさに往生すべし」


「今日宗教と名づけられているものは随分たくさんありますが、そのいずれをとってみても、皆そこに自分以外の「ある何らかの人間以上の力」を礼拝し、これによって自分の幸福を獲得しようとしているようなものばかりなのであります。
 そして、釈尊さえも、いつしか人々によって、世の常に従い神様と同じような意味の仏様とされ、御厨子の中に祀られておりますが、それは釈尊に対しては明らかに反逆行為であります。このようなことは経典のどこを繙いてみても、決して釈尊自身の教えておられるところではありません。いや、このようなことこそ、釈尊のすでに捨てられた外道の行為なのであります。 (中略)

 釈尊は私たちに対していつも最後はたった一言「汝自ら当に知るべし」「ただお前の眼を開け、お前の澄み切った智慧の眼を開け、汝を救うものはただ汝自らである、ただよく智慧の眼を開いて昏盲の闇を滅せよ、汝の智慧の眼の開かれない限り、汝の生は永久に悲しかろう」とくりかえしくりかえし説きたもうているのであります」(『人生の矛盾とその解決』・『暁烏敏全集』15巻578頁/595頁・大正15年師48才)


『人生の矛盾とその解決』という題名、文体、内容と言い、96年前の著述とはとても思えません。林暁宇先生を暁烏先生のもとへ導いた病弱の念仏者、赤禰貞子(あかね ていこ)媼が暁烏先生に出遇ったきっかけは、この一冊でした。
林先生からそう聞いて、この一文を読み、宗教は他者依存に過ぎず、人間にプラスアルファを恵むもの、と決めつけていた当時の私は「汝を救うものはただ汝自らである」の一言に衝撃を覚えました。 私を「汝」と呼ぶ「我」こそ如来でありました。 自力の心からの独立解放、真の自立を果たさせるのが他力の信でした。

それにつけてもおよそ100年前の文章が古いどころか、現在でも釘付けにする鮮烈さですから、何をかいわんや。圧倒されます。

勤行後に拝読した、昭和26年3月19日大谷大学卒業式での訓示を以下に記します。 当時宗務総長だった満74歳の師は、盲目であり原稿も見れません。ところが壇上に立つや、盲目の老僧が冒頭にニイチェを引用して獅子吼されたのでした。型通りの訓示を想定していたであろう、若き卒業生たちは目を回したに違いありません。その場で聞き、筆録した秘書の野本永久(のもととわ)女史は「すてき」と。「青年よ、大志を抱け!」とのクラーク博士さながらの訓示です。


『この人を見よ』という本を書いたニイチェは狂人だったろうか。誕生すると同時に「天上天下唯我独尊」と叫んだ釈尊は狂人だったろうか。「聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり」と『教行信証』の「化身土巻」に大声叱咤した親鸞聖人は、華厳の鳳潭が言ったように狂人だったろうか。
「仏教界は衰微している」と言った新聞記者に対して、「仏教界という世界はどこに在るか、私の身心に満ちた仏教は、いま宇宙大の勢いで全世界に輝いておるよ」、と言った暁烏は狂人だろうか。
法蔵菩薩の師匠の世自在王仏は、法蔵菩薩に対して厳かに教えられた。「たとえば大海を一人升量せんに、劫数を経歴して、尚底を窮めてその妙宝を得べきがごとし。人、心を至し精進にして道を求めて止まざることあれば、みな当に剋果すべし。何れの願いをか得ざらん」(聖典14頁)と。
「何願不得(何れの願いをか得ざらん)」とは厳かな教えではありませんか。この、「道を求めて止まざることあれば何れの願いをか得ざらん」という一語を今大学を卒(お)えて社会に出ていかれる皆さんにはなむけと致します。

林暁宇先生のおかげで暁烏先生の世界に遇えたこと、「教授の恩徳」に尽きる法要でありました。明年の70回忌お待ち受けが始まりました!南無阿弥陀仏

閉会後には師の書軸を拝見 自由闊達な筆に魅了されました!

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