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〈開催報告〉9月23日秋の彼岸会法要

2023.09.24

雨が断続的に降る中、9月23日(祝)秋の彼岸会法要が勤まりました。『仏説阿弥陀経』の「意訳」を全員で拝読し、その後に阿弥陀経・正信偈同朋奉讃のお勤め、法話でした。




法話は親鸞聖人「大経和讃」の一節「阿難尊者座よりたち」に学びました。阿難が座り込んでいた「座」とは阿難自身が立場する「視座」でした。その「視座」が、25年も釈尊の傍にいながら遇わせなかった。いわば近いから最も遠いのでした。釈尊はこの日に限って光り輝いていたのではなく、「もともとそうだった」のであり、その驚きこそ出遇いの内実と教えられます。公けなる法の世界が自我分別心を翻した阿難の廻心は、 釈尊の出世の大事を引き出す問いとなって発起し、本願の教えが公開される端緒を開いたのでした。



「座」とは自我の分別心であり、それは本来の平等性を忘れた比較心です。阿難においては劣等感となった差別心であり、縁によっては同調圧力に弱い、没主体の迷妄を生み出します。その具体相を映画「福田村事件」(森達也監督)の予告編を観ながら、様々な切り口で考えさせていただきました。
関東大震災後の朝鮮人・中国人・ 社会主義者等を警察や善良な市民らが虐殺した史実を基にした作品です。1923年9月6日、 デマを鵜呑みにし、村を守ろうとする恐怖心、群集心理が 千葉県福田村(野田市)の自警団等の村人を突き動かし、四国の被差別部落からやって来た行商人の一行を朝鮮人と誤認し、15人の内9人を惨殺したという凄惨な事件です。「生きねばならぬと考えることから、世界は殺しあっておるのである」(西村見暁師)という、極めて深い顛倒です。 また映画では行商人のリーダーが「我らは日本人だ。だが朝鮮人なら殺してもいいのか!」と叫ぶ、印象的なシーンがあります。

しかも幾重ものタブーとして語られることがほぼなく、現在に至っています。
百年前の事件に限らず、コロナ下における医療従事者差別や他府県ナンバー狩りも同根であり、寺院社会もまた閉鎖的で異論排除のバイアスが極めて強い、忖度集団の一面を持ち合わせています。さらにジャニーズ事件も外国人特派員の報道が、見て見ぬふりのメディアと日本社会を揺るがしているのでした。

差別意識を「座」とし内因として抱える業縁存在である私たちに、公けなる仏法は「因に立って縁を問う」姿勢を教えているのではないでしょうか。南無阿弥陀仏

本堂参詣12名+Zoom参詣9名でした


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