〈開催報告〉9/23(祝)彼岸会法要が勤まりました
2022.09.24
雨続きの彼岸ですが、予定通りに彼岸会法要を勤めました。
先日、ある宗教雑誌の代表者から、「元統一教会関連の事件について、メディアが大きく取り上げているにもかかわらず、伝統仏教をはじめとする既成教団は何のコメントも発しないですね・・」とのご意見をお聞きしました。全容解明していない中、言及しにくいのも確かです。
ですが、せめて現時点での論点整理だけでもと、「元統一教会の報道におもう」と題して一緒に考えさせていただきました。
私は研究者でもジャーナリストでもなく、またカルト教団に関わった経験もありません。ですから新聞・雑誌・書籍などの情報を基に、特に日本経済新聞の連載記事をベースに、①カルト宗教・②霊感商法・③政教分離の原則(憲法20条)の3つの切り口で整理してみました。
特に③政教分離の原則は「国家が特定の宗教を保護、あるいは不当に弾圧することを規制し、信教の自由を保障する」趣旨です。国家への規制であり、信教の自由を保障する趣旨ですが、宗教団体の政治活動への関与は認められています。ですが社会の中では、この点が正しく認識されていない印象があります。
第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
また憲法20条の趣旨が誤って流布し、「政治=此岸(穢土)=現実生活」「宗教=彼岸(浄土)=心の安らぎ」とする分断感覚が社会常識化し、宗教は現実生活とは無関係な癒し、寺院は紅葉を眺める映えスポットでしかない宗教観を生み出していると私はみます。
念仏は全生活の根本基盤として発動し、生活のただ中で「慧眼」を開く時を折々に恵むのでしょう。現実生活と無関係どころか、生活即道場に転ぜしめるはたらきでしょう。あわせて、生活即道場の実験者、聖徳太子の存在もあらためて思うことです。
法話の冒頭には、オウム事件林泰男元死刑囚(2018年7月26日刑執行)の東京地裁第一審判決時の裁判長の言葉を紹介しました。
「被告人を一個の人間としてみるかぎり、被告人の資質ないし人間性それ自体を取り立てて非難することはできない」
「およそ師を誤ることほど不幸なことはなくその意味において被告人もまた不幸かつ不運であったといえる」と裁判長は語られました。
誰に出遇うか。どんな出来事に、言葉に出遇うか。出遇いが人間を決定づけるのです。人間を業縁存在と見抜いた、裁判長の深い見識に頷かされます。
「自分たちは絶対善の正しい存在、相手は絶対悪、という思考こそがカルト的な思考なのです。社会がそれにとらわれてはいけない」(真宗大谷派玄照寺住職瓜生崇師・ 『ニューズウィーク日本版』22年9月13日号 )との指摘は、現実的な本質論と受けとめます。
むしろ教えに縁がある私たちにとって、迷いを深める縁とは何か、迷いに目覚める縁とは何か―が課題でしょう。親鸞聖人が師法然との出遇いを「出離の強縁」(聖498・永遠の迷いを出離する強い手がかり)と仰ぎ、「弥陀の本弘誓願を 増上縁となづけたり」(聖495)と詠いあげていることを憶います。
霊感商法は詐欺事件であり、信者家族の生活破綻を招く教団のありかた、その教義に私は首肯できません。教祖・幹部と一般信者との極端な地位的格差にも違和感を覚えます。
「創価学会が持つ約700万票」と比べれば、わずかに「7万〜8万票程度」の集票力にすぎないのに、大きな影響力を持っているかのように振舞う組織戦略が成功してきたとも見えてきます。政治家側が支持者を増やしたいのは当然ですが、「(09年新世事件で霊感商法として摘発を受け、日本は罪を負っているから韓国や教祖に多大な貢献を求める教義がありながら)選挙に協力してもらえるからというだけで、自民党の政治家がそのような教団と関係を持っていたのは、日本の政治史上の汚点だ」(宗教学者島薗進氏・22年9月15日日本経済新聞)との指摘は、日本人の宗教に関する見識不足を浮き彫りにします。
が、社会が教会側のバッシングに走ることは「排除は結束を生み、結束は極化を招く」とのニューズウィーク紙記者のコメントどおりの結果を生むだけかもしれません。オウム事件同様に、問題の本質を解明しないままの幕引きは、宗教リテラシーが欠如した日本社会にとって、また宗教法人の代表役員である私にとっても歓迎できないことです。南無阿弥陀仏