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【開催報告】8/31「香草忌」(暁烏師72回会記念法座)が勤まりました

2025.09.03


格別の残暑の中、8月31日に香草忌が勤まりました。
虫干し法会を兼ねていますので、暁烏敏師や藤原鉄乗師の書、去る6月29日にご西帰された池田勇諦師の書を掛け、汗を拭きつつお参りくださった門信徒と共に、巨人の足跡を訪ねました。


左から「南無阿弥陀仏 (暁烏)敏書」・「宜自決断 大経悲化の教誡 (池田)勇諦」・「風定花当落 鳥啼山更幽 (藤原鉄)乗 ※風定まりて花当に落つ 鳥啼きて山更に夕幽なり・「南無阿弥陀仏 沙門敏書」※了善寺共同墓に刻銘した名号・「天照 昭和六年秋 為草川君 敏」
始まる前に掛軸の説明を・・
左から3幅目四行書は藤原鉄乗師(久ちあん=倶知安の山にまむかひ 立つ山の いただきは見ず 雲の蝦夷不二=富士)、他は全て暁烏敏師
右から2幅目「応信如来如実言 (暁烏)敏」
左端「元旦や鐘楼のやねに鳥集ふ 敏」 隣「薫風や何もみえぬがうれしくて 敏」以上3幅は昭和20年失明後の句・書


本年は敗戦から80年。戦前、戦時下、そして戦後日本の主権回復をめぐる師の言説に耳を傾けました。師の思想は、一面では決して捉えきれない広さと深さがあります。
明治以降、真宗大谷派は教団を挙げて戦争協力し、国家体制に組み入れられていきます。当時の大谷大学河野法雲学長が仏教の神祇観について正論を述べたことから「東本願寺の門に向かって大砲をぶっ放す」と第十六師団長から脅され、学長を辞任された時代でもあります。

すべては「業縁存在」の一言で言い尽くせます。仕方がなかった・・という弁解でなく、事実の厳粛さ、必然性をあらわす言葉が「業縁」です。
縁とは出遇いです。他者、言葉、出来事、時代の言論や環境との出遇いによって、私は形成されます。そして時代社会から影響を受けるのと同時に、一人の声が時代社会の業を形成するのです。

日本の中に自分を見る 
自分の中に日本を見る 

(昭和19年1月・野本永久著『暁烏敏伝』620頁)

我の他に社会なし、社会の他に我無し
(昭和28年6月21日明達寺祠堂経・『暁烏敏全集』20巻451頁)



現代の感覚で当時を批判する立場、例えば「武士が刀を提げていたのは銃刀法違反だ!」ということではなく、人間の悪戦苦闘の歴史に学ぶ方向を志向します。

昭和6年9月満州事変の翌月、同年10月号『願慧』誌上に師は「非戦争論者である私は戦争が始まったら何をするか」(『暁烏敏全集』23巻442頁~)との一文を著し、『十七条憲法』第十条に基づいた態度決定を表明されます。そして、国民の熱狂が高まる中、師もまた戦争にのめり込んでいきます。

真宗大谷派は、満州国をはじめ、台湾や朝鮮等に多数の別院を建立、本山では東条内閣成立の祝賀法要を勤め、また武内了温師が『大政翼賛と浄土真宗』という著書を刊行した時代です。大谷大学では軍事教練が行われ、『真宗』誌は戦争一色です。(因みに太平洋戦争中、暁烏師は『真宗』誌には寄稿されていません。句仏上人ご西帰時に奉呈した弔歌が掲載されているのみです)

『万歳の交響楽』も当時の評価は異なっていました。
「私はかつて「万歳の交響楽」というものを書いてそれを四高の学生に配布せんとしたところ、高等学校の校長は「自分が一読してから」というので見せたが、「この本なら(学生たちに)見せられぬ」と言った。「どこが悪いか」と尋ねたら、「日本国家が南無阿弥陀仏によって成立するという、ということがいけぬ」と言われ」た 時代でした。
(「 」内:暁烏師発言/昭和16年2月13~15日真宗教学懇談会記録より抜粋・『教化研究』145・146合併号273頁~/本山宮御殿にて開催/連枝5名、総長等宗派要職者、教学者として斎藤唯信・河野法雲・稲葉円成・曽我量深・金子大榮・柏原祐義・安井廣度他、約30名参加 国家の思想言論統制が一段と強まる中、教学教化の方向性を定める重要会議)

現代では理解しがたい時代状況であり、師もまた戦争協力の一翼を担っている面を見据えつつ、一方で世間とは異質な師の至言、文章、態度決定もうかがえます。一例ですが、毎田周一師が伝える暁烏師の仰せは、曇りを感じさせない切れ味です。

明治憲法第三条についても戦時中に(暁烏)師は堂々と次のように解釈せられた。―天皇は神聖にして侵すべからず、ということは、日本人全体の代表者としての天皇が神聖不可侵であるということである。だから日本人の一人ひとりが神聖不可侵であるということである。いや、のみもしらみも神聖にして侵すべからずである。 明治憲法の解釈に立って師は「大日本は仏国なり」といわれたのである。

先師は敗戦のとき「敗戦の神風が吹いた。無条件降伏の神風が吹いた」とからからと笑われたのである。人間が自分で神風を吹かそうなどと、神風特攻隊を組織したことを笑われたのである。神風は神が吹かせる。人間が吹かせるものではない。敗戦も他力なら、我が国の復興・再建設も他力である。先師はただこの他力に随順して行かれただけである。これを凡夫という。戦前戦中戦後を通じて、ただ先師は凡夫の自覚に徹していかれたばかりである。

二文共 毎田周一師「先師と大東亜戦争」(抜粋)『毎田周一全集』7巻395頁〜


本堂34名・Zoom最多19名の参詣
ひときわ暑い中をようこそお参りくださいました
暁烏敏師➡和田稠師宛 出征時に送った葉書 ※鈴木君代師所蔵
「いよいよ御苦労の由、尊い御用をつとめてお丈夫でお帰りのよう、祈念しています」(表記を改めた)
前席50分・後席60分・質疑応答40分の長丁場となりました

(日本国の)独立ということは、自分が独立せにゃ国の独立ということはない。宗教ということは、自分が独立するということです。何物にも頼らないということが弥陀の本願に随順するということです。それができておるか。アメリカに頼ったり、ソ連に頼っておるから、もがもがしておる。そういうことじゃない。

暁烏敏師「念仏と国家」/昭和28年8月21日夏期講習会第七日
『暁烏敏全集』20巻521頁~


占領統治が終り、独立を果たし再軍備が叫ばれている頃の言説です。ここで暁烏先生が言われる「独立」とは、他国依存からの脱却でしょう。因みに清沢満之先生の「独立者」とは、自我分別、自力の心からの独立を意味します。

法話の結びに映画監督伊丹万作氏の言葉を紹介しました。( 『新装版伊丹万作全集1』「戦争責任者の問題」/昭和21年8月) 
国民自身の戦争責任が不明瞭なまま、A級戦犯に罪を負わせたありかたへの批判は、実に鋭く刺さります。現代においても、決して色あせない視点です。
宗派においても、戦争責任は暁烏師をはじめとする一部の僧侶に、差別問題は訓覇師に負わせる傾向を感じます。自分が抜け落ちている限り、同調圧力に弱い危うさにも気づけないままです。伊丹氏の指摘は、私たち一人ひとりに深く問いかけてきます。南無阿弥陀仏

責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永遠に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という便利な一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。「だまされていた」と言って、平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。 いや現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。
           






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