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11/24(日)定例法座「清澤師に学ぶ」―報恩講法話のお浚い

2024.11.24

本堂12名+Zoom15名のご参詣でした

24日(日)14時~16時、定例法座「清澤満之師に学ぶ」では、先月27日(日)報恩講での一楽真師の法話動画1席目(約50分)を視聴しました。
先生は1席目の結びで「念仏の救いとは、分別からの解放」「救いは、いま、ここ」「分別とは言い換えれば、執着、決めつけ、思い込み」と教えてくださいましたが、その点を清澤先生の『他力の救済』にたずね、「一念」について確かめ合いました。

『他力の救済』の冒頭は、「我、他力の救済を念ずるとき」「我、他力の救済を忘るるとき」と繰り返されます。西村見暁師は「この繰り返しの中に、清澤先生は自分の一生を表現しておられると、私には見えます。他力の救済を念ずるときと、他力の救済を忘るるときと、この二つの時の繰り返しが、自分の人生であった、と言っておられるように思えるのであります」(『世界統一的国家の原造者』)と仰います。真宗用語としての信心は「如来」であり「本願」に疑いが晴れるときです。信心とは人間の信仰心でなく、いつでも「いま」を開くとき=「一念」です。

「念ずるとき」の内実は「忘れていた!」との目覚めでしょう。それは道が閉じ、物欲に振り回されできりきり舞いしている真っ暗な自分が照らされる時です。逆説的に言えば、目覚めはグッスリ眠りこんでいる人の上にのみ、起こります。例えば電車を乗り過ごしている間は、乗り過ごしには気づけません。目が覚めて、はじめて「しまった!」と。
同様に「我、他力の救済を念ずるとき」の内実は 「忘れていた!」との目覚めです。「いいとこどりしようと分別していた!」「分別の苦、取捨の苦」(『論註』)が見える一瞬の到来です。いのち終わるまで分別心を立脚地とする私に、分別を離れるとき、自力無功の目覚めが一瞬発起します。仏法は一瞬です。

清澤先生曰く「我らにとりては、信の一念の外には如来はないのである」(「我以外の物事は当てにせぬこと」岩波版『全集』6巻139頁)。明解な教示です。
親鸞聖人がいわれる「信心」とは人間の心境でなく、思いを破る「とき」であり「いま」です。その「とき」=「一念」こそが如来、と清澤先生は喝破されています。

16時までの法座ですが、本堂に残られた5人と17時過ぎまで語り合いました。二次会がまた痛快なひと時でした。

蓮如上人は「まきたてが、わろきなり。人になおされまじきと思う心なり」(聖典①875頁・②1047頁 意訳:畑に種を蒔いたまま手入れをしないように、仏法聴聞も聞きっぱなしではだめだ。自分の心得違いを他の人に直されまいと思う自己過信が問題なのだ)と仰います。

正直に言えば、私自身、自坊の報恩講では気ぜわしく落ち着いて聞いていません。ですから、聞き直すと「自分が如何に正しく聞けていないか-」がはっきりします。それが、私にとっては今日の法座の最大の収穫でした。南無阿弥陀仏

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