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6月7日臘扇忌-お待ち受け

2020.06.02

新型コロナウイルス到来により、ご出講叶わなくなった島﨑暁民(ぎょうみん)先生(真宗大谷派称佛寺住職・昭和5年生まれ・石川県)からレジュメが届きました。石川県在住の拙寺衆徒勝見兄がパソコンとワイヤレスLAN持参で称佛寺様に行って下さることとなりました。当日の縁次第ですが、ZOOMにて先生のご法話を20分ほどお聞かせいただけるかも・・となりました。

2枚の画像は、 原稿用紙全9ページのレジュメの表紙と最終頁です。ご讃題は「仏法は非我にて候」です。「無我」の誤りではないかと訝(いぶか)しく思う方もおられましょうが、さにあらず。「非我」です。
『蓮如上人御一代記聞書』81条(『聖典』870頁)には『「仏法には無我」と、仰せられ候う』とあります。同160条にも「仏法には無我」と。清澤満之先生は、この一句に深く耳を傾けておられます。清澤先生の仰せ・著作には、度々蓮如上人が登場されます。蓮如上人と清澤満之師。両者をして正反対のように受けとめがちですが、その視座自身が真反対なのでした。求道に篤い尾張門徒だった先生の御母堂の存在がきっと影響しているのでしょう。

島﨑暁民師のメッセージ
島﨑暁民師のメッセージ

「・・蓮如上人は『仏法は無我にて候う』といっておられますが、蓮如上人が今日(こんにち)もし、お生まれになっておれば、きっと『仏法はすべてを如来のお力におまかせして、まったく無責任になることである』とおっしゃったでしょう」。(『清澤先生の言行』49頁 清澤満之記念館)
「無責任」は誤記ではありません。清澤先生の仰せには他にも「責任煩悩」、あるいは「如来の仕事を盗む罪」とあります。

これらの教言は倫理道徳のモノサシでは絶対に読めません。が仕事と家庭の板挟みに苦しむ時、社員の罵声を浴びながら会社をたたむ他に道が無い時、新型コロナによって隔離生活を過ごしている時、息を吹き返す転機を恵むのはこれらの金言でしょう。
劇薬は時に副作用も強いのです。副作用を気にして服薬しないで済む間は、それで良いのです。だから健康な方は、腕組みして批評していれば宜しい。
「非は悲なり」ともお聞かせいただいています。アレコレと妄想しつつ、6月6日のご命日、そして7日の拙寺臘扇忌は目前に迫っています。 南無阿弥陀仏

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