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8月22日(日)香草忌を勤めます

2021.07.23

8月22日(日)14時~16時30分 香草忌を勤めます。
講師は池田勇諦師、讃題は「私にとって暁烏敏(あけがらすはや)とは-」です。堂内は人数限定〈※満席・Zoom参詣受付中 8/4追記〉、事前予約制ですので、8月1日からメールにて予約を受け付けます。またZoom配信は人数無制限ですので、メールにてお申し込みください。いずれも宗派を問わず、誰でもご参詣いただけます。尚、参加費制ではなく、随意志納です。〈メールアドレスやアクセス等の詳細は こちらへ!〉 

暁烏敏師 松任駅舎にて (大阪横山定男氏撮影 ※本画像は具足舎にて接写)


野本永久(のもととわ・1904-1990・暁烏師秘書) 野本 永久 | 人物検索 | 徳富蘇峰記念館 (th-demo16.com)  
師の秘書。この画像は師没後30年ほどを経ているが、野本女史は暁烏師の影響で高濱虚子に俳句を習い、俳人としても著名であった。後に大部の名著『暁烏敏伝』(大和書房)を執筆された。(古書で流通しているが、史料も多く引用された秀逸な伝記である)目の回るような日程を切り盛りし、出版刊行を指揮し、昭和26年宗務総長時代は師と共に本山内の黒書院に暮らした。実に厳しく、そのきっぱりとした物言いに対して、若き衆徒らは誰一人口答えできなかったと聞く。
(林先生は「島﨑(暁民)さんは心臓に毛が生えとるから、野本さんにも意見を言っておったな。ワシらは、あんなことはとてもできなんだ・・」と漏らされていた)


暁烏敏師は明治10年生まれ、昭和29年8月27日に齢78歳にてご西帰されました。清澤満之師の直門であり、また「加賀の三羽烏」と謳われた在野の傑僧であり、真の意味での「自由人」-何ものにもたよらず、自らに由って生きる独立者であり、底下の凡愚でありました。
当山にご縁が深い林暁宇師、谷田暁峯師、そして6月の臘扇忌にご出講いただいた島﨑暁民師は、暁烏師のご門下であり、3師共に寺院出身でなく、北海道の農家・石川県の警察署勤務・石川県の文房具店のご子息です。暁烏先生は、時には10名以上の青年男女を寺に寄宿させ、僧侶として得度し、「一人ひとりが自らに満足する」ことをひたすら念願されました。大恩師清澤満之師の姿勢に倣ったと私は拝します。 暁烏先生が「坊さんは在家出身に限る」と公言されたのも、単なる思い付きでなく、「実験」の説を開陳されたに違いないと拝察しています。
暁烏先生は、例えば大正期に勤まった「立教開宗700年記念法要」にて「500万円の勧財」をする宗派を真っ向から批判しています。いわく「法要を勤めて金を集むる」「宗祖の嫌がられそうなことをやって金を集めて宗祖の法要を修してそれが何になろう」「そんな悪辣な方策をしてまで金を集めて、どんな盛大な法要が勤まったとて、それが何になろう」。(「大谷派の現状に就いて」『全集』14巻367頁~・大正10年10月8日)
歯に衣着せぬ言辞は、最も身近には清澤師の「白川党改革」の炎が依然として消えていなかったからと申せます。更には、唯円大徳の「歎異(たんに)」の精神、蓮如上人の真宗再興の熱情にも遡ります。

宗派内での一部の不評は、自由に物申す師には必然でした。その影響は、現在にまで及んでいます。
「羽織の裏を着て歩く男」「暁烏という大馬鹿者が世に出でて」と自らを表白されていますが、それは「ワシャ何にでも成れる」世界=生き仏にも糞坊主にも成れる=を回向された人ならではです。自力無功に目覚めた底抜けです。

尚、池田先生を現在の東京にお迎えすることは叶わず、ご自坊(桑名西恩寺様)からの配信となります。双方向ライブ配信のメリットを活かし、ご法話後に意見交換・質疑応答の時間も設ける予定です。

皆さまのご参詣をお待ちしております。 南無阿弥陀仏

赤尾つう様 明達寺の台所を預かり、食料の乏しい中を寺に寄宿する多くの青年男女の腹を満たすことに生涯をかけた方。闇米は一切買わず、師を筆頭に「禁酒・禁煙・禁肉食」を貫いた明達寺においては、干したスルメを短冊に切っていれたカレーが一番人気のメニューだったと聞く。いわば「典座(てんぞ)」として生涯を明達寺に捧げ、ご晩年までご苦労を重ねた赤尾様に対し、衆徒の諸師は一様に深い謝念を述べられる。しかしながら加賀の念仏の大地を体現したかのような、このお姿はどうだろう。南無阿弥陀仏(林暁宇師所蔵・具足舎にて接写)


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