• 教えに遇う
  • 了善寺について
  • お墓・葬儀・法事
  • 暁宇会
暁宇会
暁宇会
トップページ > 暁宇会

暁宇会

暁宇会事務局

〒105-0014 東京都港区芝1-13-22 了善寺内
TEL:03-3451-5646
FAX:03-3451-3301
MAIL:ryouzenji@ked.biglobe.ne.jp

暁宇会とは

2006.8.26 林 暁宇師 石川県能美市広大舎にて

2006.8.26 林 暁宇師 石川県能美市広大舎にて

暁宇会選書 A5判134ページ

暁宇会選書 A5判134ページ

暁烏敏(あけがらす はや・1877-1954・石川県明達寺住職・清澤満之師の門弟・真宗大谷派宗務総長)師に出遇い、清澤満之師の教えに生きんとされた林暁宇先生が2007(平成19)年4月29日に往生の素懐を遂げられた後に、有縁の朋友が集い、谷田暁峯師(明達寺衆徒・広大舎主宰・2011年10月22日西帰)を代表として発足した僧伽(サンガ=仏法が開く信仰共同体)が「暁宇会」です。

宗派や寺の垣根を超えて、僧俗の別なく日ごろの信を確かめあう有機的組織を志向しています。毎春1泊2日形式の聞法会「暁宇忌」を開催、暁宇会選書の刊行と頒布を続けています。

林先生の仏道の原点は、若き日に結核にかかり死に直面されたことでした。「死の恐怖というよりも、何の意味も無しに終えていかねばならない一生にやりきれない思い」が湧き、そして「そのとき初めて、二十年という人生が短いからむなしいのではなく、ほんとうのものに出遇えなかったからむなしいのだ、と気づかされた」のでした。人類共通の最重要課題、「後生の一大事」に出遇ったとも申せます。 その後に赤祢貞子法姉に出遇い、その導きによって暁烏敏師に出遇い、自らの生涯を仏道の「実験」場所として歩まれました。師暁烏敏はもとより、赤祢貞子、前田政直、岡部つね(三味線婆ちゃん)といった念仏者に次々と出遇いお育てを仰がれた姿勢は「もし みおしえにあわざれば生まれしこともむなしけれ もし よきひとにあわざれば今日のよろこび知らざらん」との言葉を生み出しました。 親鸞聖人が『恩徳讃』において「如来大悲の恩徳」(根源)と「師主知識の恩徳」(具体化)を重ねて讃嘆されているように、仏道とは最も具体的には「得道の人」との出遇いに尽くされることを、身をもって証されたご生涯でした。

生涯にわたり寺院住職になる縁はありませんでしたが、後半生は夫婦二人暮らしの住まいを「具足舎」と名付け、訪ねてくる方の声に耳を傾け、語りあい、泊まられる方も多くおられました。中にはしばらく一緒に生活された方も何人もおられました。舎にて聞法会を開いていた時期もありましたが、石川県に移住されてからは報恩講を除き行事は開催せず、語り合いと文通、月刊誌「鍋谷だより」や書籍の刊行、全国各地への法話出講等が先生の毎日の生活でした。

詳しくは林暁宇先生の略歴、最晩年に自ら書かれた「お礼の言葉」、先生が出遇った世界の一端を示す写真をご覧ください。

※了善寺前住職・現住職と二代にわたり、林先生にお育てをいただきました。寺へも度々ご出講いただいていたご縁から、暁宇会事務局が了善寺に置かれています。

  • 林暁宇(はやしぎょうう・俗名林茂 はやししげる)略歴

    1923(大正12年) 4月25日、北海道浦幌(うらほろ)町に林冨吉・マツの六男として生まれる。祖父母は石川県の出身で、念仏の信仰に篤かった
    1938(昭和13年) 更別(さらべつ)村旭小学校高等科卒業
    1940(昭和15年) 肺結核で自宅療養。『慈悲の国』という冊子に手紙が載り、病弱の念仏者赤祢貞子(あかねていこ)を知る
    1943(昭和18年) 北海道庁十勝支庁に勤務する
    1949(昭和24年) 暁烏敏に会い、明達寺(みょうたつじ)に入る
    1950(昭和25年) 得度教師となる。師より「坊主は乞食だぞ」と言われる
    1951(昭和27年) 北陸大谷学園(当時)研究科卒業
    1952(昭和29年) 暁烏敏全集刊行に当たり編集を担当
    1956(昭和31年) 肺結核再発、片山津石川療養所にて左肺上葉切除
    1963(昭和38年) 40歳、下松(くだまつ)綾子と結婚
    1969(昭和44年) 明達寺を出て北海道で放浪生活を送る
    1970(昭和45年) 小豆島に住み四軒長屋の片隅を借りて「具足舎」と名付ける
    1980(昭和55年) 札幌に移住
    1998(平成10年) 石川県鳥越村のケアハウスに入る
    2001(平成13年) 石川県能美市鍋谷町に移住
    2004(平成16年) 暁烏敏五十回忌記念講演会を開催
    2007(平成19年) 3月「第41回仏教伝道文化賞」(公益財団法人仏教伝道協会)受賞
    ⇒ お礼の言葉
    2007(平成19年) 4月29日西帰。満84歳
  • 著作

    ・「三味線婆ちゃん」自費出版 (昭和56年)
    ・「私はなぜ教えにあわねばならなかったか」(シリーズ15冊)他を自費出版
     今まで仏縁のなかった人や読書人でない人に読んでもらえるものを志す
    ・「暁宇感話集」(全10巻 CD、カセット)
    ・「もしよきひとにあわざれば』(東本願寺出版部)
    ・「暁烏敏先生五十回忌記念講演集」(共著 北國新聞社)等

  • 妻 林綾子 略歴

    1929(昭和4)1月3日、山口県柳井市阿月町に下松家の五女として生まれる。
    結核療養の後、赤祢貞子の導きで明達寺に。
    夫・暁宇西帰後、故郷山口県に転居する。
    2010(平成22年)11月24日山口県にて西帰。満82歳。親族によって、山口県柳井市円覚寺に埋葬

    ※平成19年林暁宇本人が作成した略歴に加筆

  • 平成19年3月15日 第41回仏教伝道文化賞贈呈式
    「お礼のことば」 林暁宇

    皆様 本日はまことに有難うございます。
    当仏教伝道協会の沼田智秀会長様はじめ、信楽峻麿理事長様、更に日頃仏教伝道の事に献身していてくださる協会関係の皆様方、又遠近各地からご出席くださいました皆々様、お一人お一人に心からお礼を申し上げたい思いでいっぱいです。
    このようにお心をこめてのありがたい席をご用意いただきながら、病身のためとはいえ、欠席させていただきますこと、まことに申し訳なく、心よりお詫び申し上げます。
    1月24日電話でお知らせいただきましたときは、まったく「寝耳に水」の思いで、いくら考えてもわがこととは思えませんでした。今もなお夜中に目をさますごとに、これは夢だったのではないかと思われてなりません。
    又このような名誉ある賞を、何の実績もない私如き者がいただきますことは、栄えある賞を傷つけることになるのではないかと思われてなりません。
    大正12年、北海道の貧しい百姓の、9人兄弟の下から3番目の子供として生まれた私は、今日のような世の中なら、この世の空気を一息も吸うこともできなかった人間です。
    そんな私が17才の時、肺結核になり、丸4年間百姓家の片隅で寝たきりの生活をしました。
    その暗い日夜の中で、たまたま父の所に無料で送り続けられてきていた薄っぺらな一冊の仏教誌に出会い、そのご縁で、生涯を病身で過ごした赤祢貞子さんの病中での深い法悦の生活を知り、この世にこのような生き方をしている人のあることを知って、それまで病身を悲観していた私は、こんな自分でも助かる世界があるのだと知らされ、自分の前途にはじめて光明を見出したのでした。
    その後思いがけなく病癒えた私は、約6年間を勤め先を変えつつ働く中で、世間の仕事をはなれて仏道一筋に生きたいという願いが強くおきてきました。
    このとき周りの人は強く反対しましたが、暁烏先生は、「ほんとうにしたいことがあったらそれをやれ。それで死んでも悔いなかろう」といわれました。これが私が暁烏先生からいただいた最初のお言葉でした。
    この暁烏先生を慕い、北海道を出て石川県明達寺に入門したのは26才の時でしたが、このとき先生は私に「君は坊主になれ」といわれ、その決心をしたとき、「君は坊主になるというが、坊主は乞食だぞ。その覚悟があるか!」ときびしいお声でいわれ、「今後食っていけるかどうかはすべて仏さんにおまかせして、君は君のその願いに精進せよ。もしも食っていけなくなったときは、仏さんが、お前のこの世での仕事はこれですんだ、といわれることだから、そのときはハイといって死んでいけ!」といわれました。
    以来まったく「馬鹿の一つ覚え」で、確かな自信もないままその一語に生かされてきました。
    病弱の私が身障者の妻と、生涯、寺も、一軒の家も持てず各地を転々として、放浪に近い生活の中で、「そんなことではこのシャバでは生きていけない」と多くの人たちからいわれつつ、他に生活の道を求めなかったのは、ひとえにこの先生のお言葉によるものであると同時に、その他に生きる術(すべ)を知らなかった私の無能によるものです。
    そして、この体力も能力も学歴も信心も何一つない者が、どのようにして先生にいわれた「如来さんのお仕事のお手伝い」をさせてもらえるかということで長く悩みつづけました。
    そんな中で、先にあった赤祢さんや、その後、三味線婆ちゃん、前田政直さんという希有な念仏者に出会い、その生き方に感動させられたことから、訪れる人があるとそれを語らずにおられなくなり、そのうちに、このような人のことを後の人にも書き残すべきでないか、またそのことこそ、このような人に出会えた私に与えられた使命ではないかと思われ、少しずつ書きはじめたのですが、それがいつしか私の生活となりました。そして、何の収入にもならないことをしている私の生活を、いつも周りの方々が支えてくださったのです。
    従って本日の賞も、長い間こんな私を支えてきてくださった方々に賜ったもので、たまたま私の名でお受けしたのだといただいています。
    また今日の賞をいただいての私の最も大きなよろこびは、「如来まします。案ずるには及ばぬ」といわれ、「仏さんがいいようにしてくださる」といわれて、「衣食のことは一切考えず、ただ仏道一筋に生きよ」といってくださった、清沢満之先生や暁烏先生のお言葉の真実であったことが、世の多くの人の前に明らかにしていただけたことであります。
    ここに、今回のことに関わってくださった皆様方に幾重にも御礼申し上げて、私のお礼のことばとさせていただきます。 南無阿弥陀仏

    (於 東京都港区 公益財団法人仏教伝道協会)

ページの先頭へ